「夢の三競演2017」を観に行った

毎年年末に開かれている、桂文珍桂南光笑福亭鶴瓶の「夢の三競演」を観に、赤坂に行った。

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毎年チケットがすぐ売れてしまうそうである。幸いにも私は去年に引き続き2回目を観ることができ、しかも今回はかなり前の席が取れてすぐ近くに見ることができた。

今回は桂文珍さんがトリであったが、3者ともとても面白かった。また、最初に行われた鶴瓶さんのお弟子さんの落語も大変面白かった。

 

去年は鶴瓶さんがトリだったが、それはそれは大変印象深いものだった。最初、3人の落語が始まる前に3人が舞台に出てくるのだが、その時のやりとりで、文珍さんと南光さんが鶴瓶さんの天然ボケに突っ込みつつ、「今日トリ大丈夫かいな」と話してハードルをあげている感じだった。

南光さんも文珍さんもとても面白く、そのあとに出てきた鶴瓶さん。さっきまでと様子が変わって会場のライトが薄暗くなっており、なんとも神妙な感じだった。そこで鶴瓶さんがした落語は笑いを一切排したシリアスなものだった。観客の誰も声を上げることはなく、鶴瓶さんの話に飲み込まれていった。

テレビで見る鶴瓶さんの明るい印象とはまた違った、深く心に残るような話だった。もちろん自作の落語で、それをこのトリで行うというのは本当に勇気がいるものだったろうし、そしてその試みは大成功していた。

この後で3人が登場した時の文珍さん、南光さんも「すごかったね」という感じで感心されていて、その日一日の全体が一つのドラマのようだった。

 

落語はこうあるべしとか、笑いはこうあるべしとかいうことは何もないんだなと思った。人間関係や物語の奥深いところを突くような洞察力は一見、笑いに必要ないのかもしれないが、みなさんそういったところをちゃんと持っているがゆえの落語なのだと思った。毎年暮れに行くイベントとして、来年も楽しみにしている。

 

ナルシストが人を嫌うということ

人を嫌うということは自然感情としてありうるとは思うが、なるべくそういうことにならないようにしたいとは個人的に思っている。ただ、他人から嫌われてしまうのはどうしようもない。

一番面倒なのはナルシストに嫌われることである。ナルシストは人を嫌うことがやたら多いように思える。というのも、ナルシストは自分自身の自己イメージを現実のそれよりも高いレベルに置きたがるので、その自身のイメージ像と現実から突きつけられるものが齟齬をきたすことが多い。そうすると、ナルシストは自分のイメージ像を保つために、外界を見下したり、怒りの感情を持ったりするのである。

私はここ長らくこういうナルシストの嫌悪感情の対象になってしまっていた。どうも私はその人の持つ自己イメージと現実の乖離を無意識で刺激しまっていたようで、他の人に対してであれば問題ない私の行動もその人から嫌悪を抱かれてしまっていた。

そうなると、だんだん彼にとって私は「余計なことをするやつ」みたいなレッテルを貼られ、良いことをしても余計なことをしている半人前の人間とみられるのである。人間、相手に嫌われているか否かなんて、相手の目を見ればなんとなくわかることが多いと思うのだが、この人は本当にわかりやすかった。

私は小池龍之介の「もう、怒らない」を読んでいるので、「あぁこういう人はこういう思考回路だから僕を嫌悪しているのだなぁ」と思っており、怒ったりしないのだが、現実問題として仕事に支障が出るので、こういう時は最終的には組織の力を使ってなんとか環境を変えるしかないのである。相手の頭の中で生まれてしまった回路は他人が直すのはなんとも難しいので。

だから、ナルシストに嫌われたら、それに対して怒ったりせず、現実を変える行動に映るべきである。

 

もう、怒らない (幻冬舎文庫)

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新宿の変貌について

9ヶ月以上ぶりに新宿に行ったらタイムズスクエア周辺とタイムズスクエアそれ自体がかなり変貌していた。しかし、それ以上に驚いたのは、ツタヤである。ツタヤがおしゃれビルに変わり、スタバが入り、CDレンタルを終了していた!!!

ツタヤ新宿でどれだけCDを借りて聴いていたことだろうか。私と同じようにして音楽を知る人はもういなくて、みんなネットで聴いているのだろう。実際、今の私もそうやって聴いている。CDを無理して高い金を払って買ったり借りたり、そうやって音楽を聴いていた高校時代の私の音楽の受け止め方と今の人の音楽の受け止め方はどう違うのだろうかと思ったりする。

 

ところで、新宿のもう一方の海賊版CD・ビデオを売ってる店が密集していたあの周辺はどうなっているのだろうか。あそこも高校時代にとにかく通ったなぁ。。。

キャリアチェンジについて

昔、数学者になりたかった。しかし、数学者として活躍するのはとっても難しいのである。それは「数学は才能である」とかそういうだけの話ではない。日本の数学科では応用数学よりも基礎数学がマジョリティである。ということは、数学だけをやってる人同士の戦いなのである。そうすると、「私は経済学もやりました。そのためにはこういう数学が必要だということに気づきました。その穴を埋めることをやります」みたいな「かけ算戦略」ができない。「かけ算戦略」とは一つのことを突き詰めるのではなく、2つ以上の何かを組み合わせて、スキマになったところを攻める戦略である。そういったことをせず、一つの山をずっと登り続けるのはなかなか辛いものがある。

 

数学者とは全然違うが、それ以外の領域で同じキャリアばかり追いかけるのも同じように大変だと思う。

 

ある一つの山を登ってそこで景色を見ると他にも面白そうな山がたくさんあることに気づく。そこで一旦山を降りて、次の山を登り始める。そんな感じでキャリアチェンジするのが、長い人生を生きる上で大事だ。降りるときは不安だが、降りなければ、もっと高い山を登れない。だから、山を登ってそこから他のキャリアが良さそうで、今の自分にもチャレンジできそうだなと思ったら、一旦降りてまた登ることが大事。どうせ今後定年80歳とか、それ以上になるだろうから、一つの山を登り続けるなんて人生はほとんどの人は選べないはず。だから降りる経験・登る経験をたくさんしていろんな景色を楽しみたい。

自分らしいキャリアのつくり方 (PHP新書)

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他人の感情を知るということ

よく、「彼は人の気持ちがわからない」とか「彼女は人の気持ちによく気づく」とかいう。多くの場面で「他人の気持ちがわかる / わからない」の2分法で人を分けたがるのである。

ところが、小説を読むと「え!?こんな風にものを考えたり感じたりする人がいるの?」と思うことがある。しかし、それと同時に、自分の中にも他人へは表現しようのない感情があったり、考え方があることに気づいたりする。そう考えると、他人の感情や考え方というのは、表でわかるものは結構共通していても、その裏側にあるものは人によって相当違っていて、それらを理解するのは相当に相手と一緒にいる時間を共有する必要があるのである。

そう考えると、「他人の気持ちがわかる / わからない」の2分法で人々を見ている限り、その裏側のそう簡単に捉えられない、人によって違う感情を見ることをやめてしまうことになる。そうしてしまうと、人と本当に深いところで繋がるのは難しくなるだろう。

海外の人と話すこと

EF English Liveのグループレッスンで、「あなたの国で話題になっているニュースは?」というお題で英会話をした。東南アジアの受講生がたくさんいたのだが、もっぱらトランプ減税の話をしていた。トランプ減税は、法人税を35%から21%に落とすものである。東南アジアの各国では企業が自国に来なくなるのではないかということで、あれこれと議論がなされているのだという。

日本ではそんなに話題になってないし、切迫した問題と認識されていない。いやまぁ、日本への影響は東南アジアの各国ほど影響は確かにないだろう。実際、イギリス人の先生もイギリスではトランプ減税は報じられているが、切迫した問題ではない、ということだった。

とはいえ、他の国がどういうことで大騒ぎになっているかは日本でもよく知っておいた方がいいし、企業人にとってはトランプ減税は今後の日本の企業の戦略にも多少の影響があるだろうと思う。

だから日本の議論はダメだよねということを言いたいわけではない。ただ、外国の知り合いを持ったり、海外の人と話す機会を持っておくと、思わぬことに気づく機会が持てるのだなと思ったのだ。今後もそういう機会を持ったり、海外の友人をたくさん持てるようになりたいと思った。

Nirvanaと無垢と成熟

小学校6年の頃だったか、Nirvanaを初めて聴いた。その時はまだボーカルのカートは存命だった。自分が聴いたのはBeavis and Buttheadのオムニバスアルバムである。これはMTVでやっていたアニメに登場するビーバスとバットヘッドが二人でああだこうだとすけべな話をしたりして、いろんなバンドの曲が流れていくのである。曲を提供したバンドはNirvanaAnthrax、Megadeath、Run-DMCAerosmith、White Zombie、Primus、Cher、Red Hot Chilli Peppersなどで大変豪華である。このアルバムの第1トラックでビーバス・バットヘッドがふざけた掛け合いをやったあとに流れるのが、NirvanaのI hate myself and want to dieであった。

Beavis & Butt Head - Experience - Soundtrack

Beavis & Butt Head - Experience - Soundtrack

 

この時、まだ洋楽をほとんど聞いたことがなかったのだけど、こんな素晴らしいアルバムをその時に聞けたのはよかったと思う。ただ、その時はまだNirvanaに入れ込むということはなかったし、また、当時そこまで人気があったということも知らなかった。

その後、高校になってから友人が僕をNirvanaOasisを聴くように私を洗脳しはじめて、私自身まんまとその洗脳に乗ってしまった。

Oasisはその時に出ていたアルバムのうち、Be here now以外はとても良かった(definitely maybeとmorning gloryとthe masterplan)が、Be here nowがイマイチすぎてその後をあまり追いかけることがなくなってしまった(その後Heathen Chemistryでまたファンに戻った)。

Nirvanaだが、当時すでにカートは亡くなっていた。Nirvanaのアルバムは当時、BleachNevermind、Incestiside、MTV Unplugged in New York、From the Muddy Banks of the Wishkahが出ていた。

私がよく聞いていたのはIn Uteroだった。このアルバムはとにかく暗いし、音が全体的に前衛的で、とにかく痺れた。 

In Utero

In Utero

 

ところが、Nirvanaがその人気を不動のものにしたNevermindやその次の作品のIncesticideについてはあまりよくわからなかった。

NEVERMIND/REMASTERED

NEVERMIND/REMASTERED

 
Incesticide

Incesticide

 

Come as you areなどかっこいい曲はいくらでもあるのだが、全体的に単純なリフ、意味というか意図のよくわからない歌詞に戸惑った。例えば、Sliverという曲では、自分の子供時代なのか、お芝居を観に行った両親に置いてけぼりになりおばあちゃんと過ごすということだけをひたすら書いた歌詞になっている。また、Drain youという曲で途中で謎のタメがあるところも、全然良いと思えなかった。

なんだこりゃと思った高校時代の私はニルヴァーナの歴史を書いた本を読んだ。ちなみにそれまで本をちゃんと読んだことがなかったので、これが私の最初に読んだ本である。

病んだ魂―ニルヴァーナ・ヒストリー

病んだ魂―ニルヴァーナ・ヒストリー

 

ボーカルのカートはどうやら両親の離婚によって親戚をたらい回しにされたことが、その後の彼に強く痕跡を残し、それが子供時代への憧憬につながっているのだろうということがわかった。そしてその後も彼はバンドが売れていく中で、「昔の方が良かった」という気分になっていくのである。

「親に捨てられた」とか「昔の方が無邪気にやれた」という、「もう過去には戻れない」という気持ちを持っていたことや、「朝起きたらまだ生きていたのかと思う」などの鬱々とした感情を吐露していたことがわかる。

私も当時彼ほどではないにせよ、歳をとることにはネガティブな気持ちを持っていた。そして、自分自身が鬱っぽくなって、「空が美しい」といった感受性がだんだんとなくなっていて、今後どんどん全てが面白くなくなるのだろうか、とか、それなら生きる意味があるのだろうか、といったことを考えていたので、カートの感受性を知って、ますます落ち込んでいったのを今でもはっきり覚えている。

 

鬱々とした気分はその後何年も残っているが、ある程度の山を超えたような気がする。

カートの「失われていく無垢」に絶望する感受性はアメリカ独特という印象がある。キャッチャー・イン・ザ・ライとか・・・。これに対して、ヨーロッパは歳をとることについて「成熟」とポジティブに捉える印象がある。カートの鬱々としたところは、アメリカのピューリタンのピュアさを希求するところにもしかしたらルーツがあったりするのではないのだろうかと考えた。そういう場所では「なぜ悪がこの世にあるのか」と、悪を問題視する世界観であり、ピュアさは消えていく。カートが、歳をとっても子供のような声と音楽性を失わないダニエル・ジョンストンを好きになったのもそういう理由ではないだろうか。

 

などと、色々考えてみたが、もう私は成熟をポジティブに捉える世界観を選択している。カートが辛さの山を超えた後に書く楽曲を聴いてみたかったと思う。