決定論と自由意志

人間も自然に生きている以上、人間の行動も原子や分子の物理的な作用の連続によって動いているのだと思う。人間は自分で意志して行動してると思うが、実は脳の動きを見ると、意志したと思うよりもいくらか先に、無意識の領域で行為をし始めているのがわかってるそうだ。だから、自分が何かをしようと思うのは、実は自分の無意識が何かをすでに始めようとしているのを、意識の側で追認したときにそれを自分の意志だと錯覚することと同じだと言える。

とすると、努力をするかしないかも、結局は意志ではなく、自然物の諸関係で作動してると言える。

日本人は他国の人に比べて、実はかなり個人主義的であり、個人の意志や努力に物事の結果の原因を求め、したがって怠惰な人間に手を差し伸べる必要があると考える人間の割合が少ないのだそうだ。しかし、努力するかしないかは物理的な連鎖で決まる、つまり運次第で決まるわけだから、怠け者を皆で守るという倫理が必要なのではないか。

ところで、すべての意志や行動が自然の連鎖によって決まるとすると、自由意志はない、ということになるが、他方、自由意志がないことを認めたとしても、「あの人は自分で自分を律して行動しているな」とか「あの人は流されてるな、怠惰だな」というふうな形で人の行動に違いを確認することが可能だと思う。つまり、自分の中にある炎で自分を動かしている人と、そういう炎がなくて他からの圧力でやっと動くという人の違いは、自由意志を否定したとしても、確かに存在する。自由意志がない世界においても、自律/他律の差異の概念は保持できるのである

そこで、自律的に生きる人は何をやっているんだろうか、ということがわかれば、自ずと自分も自律的に生きられるように体や意識が動いていくのではないかなと思ってる。よく指摘されているのは瞑想の効力である。瞑想によって、自分の感情の動きを見つめることによって、自分の中にある様々な欲求に動かされず、精神的多動を避け、自分の意識を大事なところに集中出来るというものである。

自分は全くそういうことができていないが、できるようにしたい。

 

 

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

こちらの本は、言葉に「能動態・受動態」ができる前は、それとは別の「能動態・中動態」という表現の違いがあったこと示す本。意志という概念が生まれることによって、「する・される」という概念が生まれたが、「喜ぶ」のように能動的でもあれば受動的でもある再帰的な言葉を捉えることが「能動態・中動態」の時代は可能であったという話。

 

意識の流れと無意識の流れについて書かれたもの。これを読むと自分の意識についての過信を改める必要性に迫られる。 

 

スタンフォードの自分を変える教室

スタンフォードの自分を変える教室

 
世界のエリートがやっている 最高の休息法――「脳科学×瞑想」で集中力が高まる
 

持続的に意識を大事なものに集中させ、努力を続ける力をどうやって保つのか。とりわけ瞑想の重要性について触れている。