社会を生きる理由

ここ最近で見た映画(新しいものではない)で、すごく良かった映画はたくさんある。その中でも園子温監督の「愛のむきだし」は強烈だった。以下ネタバレありますのでご注意。

愛のむきだし

愛のむきだし

 

主要な登場人物は西島隆弘演じるユウ、満島ひかり演じるヨーコ、安藤サクラ演じるコイケの3人。それぞれひどい親を持っていたため、人格形成に障害をきたしている。ユウは高校生にして勃起不全だが、ヨーコに会うときにだけ勃起し、それを愛だと考える。ヨーコは男全体を恨んでおり、ユウを疎んじていて、コイケを好きになっている。コイケは父親の陰茎を切り落としたのちに新興宗教に入って、ヨーコを取り込み、ユウの愛を試す。

映画自体は学園モノだったり、男女の同棲モノだったり、パンチラだったり、格闘だったり、宗教だったりで、内容が盛りだくさんである。上映時間は237分である。長いが、一つ一つのカットが短く、次々に展開があるため、あっという間に時間が過ぎ去る感覚を覚えた。

ユウとヨーコはひょんなことから同じ屋根の下に住む兄妹の関係になるが、この映画の目的は新興宗教にはまってしまったヨーコをユウが取り戻すことである。つまり、この映画は「愛」と「信仰」の対決なのである。

ヨーコはずっとユウを相手にしないのだが、一度ユウがヨーコを奪還した時に、ユウに説教をし始めるシーンがある。このシーンが、初めてヨーコがユウに真正面に向き合った場面である。ここでヨーコは「コリント信徒への手紙 第13章」を諳んじる。この中で、「引き続き残るのは信仰、希望、愛、この三つ。このうち最も優れているのは、愛」という。ところが、どうみても愛を実践しているのはユウであって、信仰を重んじているのがヨーコである。そして、最終的にはユウの愛が勝つのである。

 

この映画を見て、対照的な青山真治監督の「ユリイカ」を思い出した。役所広司主演で、中学生の宮崎あおいとその兄が登場する映画である。こちらも217分であるが、モノクロだし、一つ一つのカットは長いし、単調なので、実際すごく長く感じてだるくなってくる。こちらは殺人を目撃してしまった宮崎ら演じる兄妹が社会に馴染むことがでず、社会に絶望してしまっている。そのせいで、兄が次々に見知らぬ人を殺していく。それを役所広司演じる男(彼も殺人現場を目撃した一人であり、うまく生きることができないが、宮崎演じる兄妹とは直接のつながりがない)が叱り飛ばしつつ、「生きろとは言わん 死なんでくれ」と言って受け止める。

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愛のむきだし」が親や性に関するトラウマに発した社会や性への怒りから出発するのに対して、「ユリイカ」は社会や人間への絶望をスタートにしている。しかし、どちらも最終的には、社会を生きることができない者同士の愛というものにゴールしていると感じた。

どちらも、「なぜ社会を生きねばならないのか?」という疑問を投げつけ、それに対して答えは出さないものの、近しいものへの愛を取り戻すことを通じて、自分を取り戻し、社会を生きることができるのだと教えてくれているように思えた。

普通に社会を営む我々は順番が逆になっている。社会を生きることが当たり前であり、そこから「親密な人間関係を作ることは当たり前よね」という要請を疑問なく受け入れてしまうのである。そして、それが本当に愛と言えるかは疑問である。私が「愛のむきだし」と「ユリイカ」の登場人物たちから受け取ったメッセージは、「愛は社会に先立つのであり、そのような愛を通して初めて社会を生きる理由が見つかる」ということである。