プロパガンダと物語のあいだ

ヘビーな映画だった。韓国の映画「トガニ 幼き瞳の告発」。 

話自体はフィクションの設定でありつつも、実際に起きた事件を基にしている。韓国の光州の聴覚障害者の学校の教員たちが児童たちに対して恒常的に行っていた性的虐待とそれに対する裁判が基になっている。この裁判は注目度も低く、被告たちが実刑を逃れ、教職に戻って行ったらしい。

原作は小説だが、小説が出た時もそれほどに話題にならなかったそう。この小説をコン・ユが兵役中に読み、強く映画化を希望して自分で主役をやったそう。

この映画の制作の当初から、この事件を広く社会の議論の俎上にあげることが目的だったそうで、結果的にその意図は成功し、この映画のおかげで「トガニ法」なる法律もできたということである。

話は主人公がソウルから田舎にやってきて聴覚障害者の学校に赴任するところから始まる。主人公には妻と娘がいて、絵描きをやっていたが、妻が亡くなったのをきっかけに定職に就くことに決め、娘を母に預け移住してきた。その学校で児童への虐待を目の当たりにし、その児童たちを守り、人権活動家の女性とともに裁判で戦おうとする。主人公は「自分の娘は一体どうするんだ?」という周囲の声に悩みつつも、裁判で闘う。しかし・・・。

 

多少気になったところはある。この映画では悪い奴は悪い奴として描かれ、良い奴は良い奴としてだけ描かれる。映画の結末は後味の良いものではないが、良い・悪いの間のアンビバレンスを描くことはなかったように見える。

しかし、そのような描き方だからこそ持ち得るパワーをこの映画は持っている。そして、それが社会を動かしたのだろうと思う。プロパガンダと映画的物語の境界線は紙一重なのかもしれない。

そもそも物語を作るというのは、小乗的(自分だけを救う)営みなのか、大乗的(社会を救う)なのか(「小乗」「大乗」という言葉遣いはフェアではないが便宜的に使う)。

ジョゼフ・キャンベルや笠原和夫的に言えば、物語とは、主人公が苦難を乗り越えて新たな自分を作るものであり、読み手にその体験を擬似的にさせることによって勇気づけるのだから、物語を作るというのは大乗的な営みなんではなかろうか。主人公たちが乗り越えるべきものとして描かれるのは、「社会」なのだから。

ただ、「その物語によってどのような救いを読み手に与えたいか」で物語の手法も変わるのだろう。そして、「トガニ」は、閉塞的で、正義がどうしても勝ちようのない社会で、しかも、自身も楽ではない状況で、それでも苦しむ人へ手を差し伸べ、永久に勝ち続けるずるい人間たちに抵抗することの重要性を示す映画なので、この手法で良かったのだろうと思う。

なお、この物語でも確かに主人公は成長している。初めからかなり聖人っぽいのだけど、途中途中で悩み、しかし、それを突き破っている。

 

この物語の「ソウルから田舎に来た人が、田舎の前近代的な振る舞いに戸惑う」というのは、ポン・ジュノの「殺人の追憶」にも共通している。もちろんこれは、対比を分かりやすくするための設定であって、「前近代的な田舎」とは我々の住む全ての社会のことなのである。

殺人の追憶(字幕版)

殺人の追憶(字幕版)