「アクト・オブ・キリング」と悪

ドキュメンタリー映画アクト・オブ・キリング」を見た。

これはアメリカ人のジョシュア・オッペンハイマー監督によるドキュメンタリー映画である。この映画は、インドネシアで起きた大虐殺の加害者を取材したドキュメンタリー映画である。この大虐殺は、スカルノ政権がスハルトによるクーデターで失脚した後に、スハルトが推進した共産主義者狩りで100万が殺されたとされる大虐殺である。

この大虐殺は政権や軍部が直接手を下したものではなかった。軍部がヤクザや民衆に共産主義者リストと武器を渡し、焚きつけたものである。実際には共産主義でない人々や華僑も多く殺された。

 

オッペンハイマー監督はこの事件の被害者たちを取材していたが、今でも彼らに対する差別はひどく、誰も顔を出したがらない。その過程で「加害者なら当時のことを雄弁に語ってくれるだろう」と考え、加害者を取材することに決める。彼らは「俺は千人殺した」などと、自分の殺人を実際雄弁に語るのである。それだけでなく、彼らは未だに英雄視されているのである。そこで、オッペンハイマー監督は、当時の加害者だったヤクザたちに「当時の共産主義者狩りの映画を作ろう」と持ちかけた。加害者たちは、喜んで当時の事件を再現すべく、自ら加害者役と被害者役を演じることにした。この「アクト・オブ・キリング」はその映画のメイキング映画のような体裁をとったドキュメンタリー映画なのである。

 

加害者たちは自分の殺人方法や村を焼き払った方法を雄弁に語り、その内容通りに映画を撮っていく。途中で、インドネシア国営テレビの番組にこのヤクザたちが出演し、撮影中の映画について語る。「俺は1000人殺したぜ」「奴らが逆らわない理由は、もし逆らったら皆殺しになるのがわかってるからだ」「イェーイ!」みたいな感じで、番組のキャスターと一緒に盛り上がってる。こんな放送が未だになされているのである。それだけではない。この映画の撮影現場に彼らヤクザを応援するために大臣が来たりするのである。

 

そんな空気が一変するのが、このドキュメンタリー映画のラスト近くである。1000人殺したというヤクザが被害者役を演じる場面でその変化は起きる。彼らの常套の殺し方である、首にワイヤーをかけて絞め殺す演技をするために、その被害者役のヤクザの首にワイヤーをかけて引っ張る演技をしたときに、「待ってくれ」「今一瞬死んだ気がした」「もうこの演技は続けられない」というのである。後日、このヤクザがその自分の映像を見ると、涙が流しながら、「俺が罪人だってことなのか?」「全部俺に返ってくるのか?」という。その後、この映画の冒頭で彼が雄弁に「ここで何人もぶち殺したぜ」と言っていた場所で、彼は「やるしかなかったんだ」と言いながら、吐き気を催し、そこでこのドキュメンタリー映画は終わる。

 

彼はもちろん罪深き人間であろう。しかし、おそらく彼もどこかの段階で、殺される人間への感情を遮断する時があったのではないかと思う。映画の途中で、インドネシア政府が作った共産主義者への恐怖を煽るプロパガンダ映画を彼が見るところがあるが、「これを見ると自分が間違ってないと安心することができる」というのである。このような形で彼は自分に自分は間違ってないと言い聞かせていたのかもしれない。しかし、それが、被害者を演じ、それを映像で見ることで、自分が殺した被害者たちへの遮断してた感情の壁が開き、一気に感情が溢れ出したのかもしれない。  

 

とはいえ、やはり彼らは罪人である。彼らを焚きつけていた軍部はもっと悪いだろうが、実際に手を染めたヤクザ・民衆が悪くないことにはならない。

そして、どのような社会であれ、私たちの住む社会であれ、人を殺しはせずとも、社会の流れや職務に乗じて、大小の悪い事をしているはずである(※)。そして、自分に自分は悪い事をしていないと言い聞かせているのである。だから、このドキュメンタリー映画は、インドネシアのひどい社会の出来事だと見ていてはダメで、自分たちの行為や社会を振り返って考えるための材料にすべきである。

※下の暴力脱獄の町山智浩さんの解説の38分00秒〜40分00秒がこの事を端的に説明しています。


町山智浩の映画塾!「暴力脱獄」<復習編>【WOWOW】#194

 

なお、オッペンハイマー監督はこの後に続編となる「ルック・オブ・サイレンス」という映画を撮っていて、そちらも面白そうである。