公正世界への期待
昨日の日記の続き
自身を守るためにずるい行いする人が世界には無数にいて、そういう人が変わることはなかなかなく、またそういう人が不利益を被ることもない、ということから来る絶望。この絶望は、私がまだ「世界は公正であるべき」という「期待」を持っているからだ。私自身は公正世界の誤謬(悪いことがあったということは悪い行いをしたからで、よいことがあったということはよいことをしたからだと考えてしまう思考の間違い)にハマらないよう常に気をつけているが、やはりまだ「世界は公正であってほしい、でもどうやらそうじゃないらしい、残念だ」と考えているらしい。「絶望してしまうのはあなたが期待をするからだ、期待をなくせば希望だけが立ち上がる」という考えには、私自身は同意するのだが、いったいどうすれば「世界に公正であってほしい」と望む期待をすてることができるのか。私は今までその方法を説明してくれた本など読んだことがない。
ところで、「世界は公正である」という考えはヘブライズム(ユダヤ・キリスト教)的考えである。これは「神は全能である」「神は公正な世界を作る」という2つのテーゼから来ている。したがって、悪いことがおきたということはその人の行いが悪いのである、という結論に至ってしまう。なお、クシュナー「なぜ私だけが苦しむのか」で、ユダヤ教のラビである著者が「神は全能である」というテーゼを否定することで「神は公正世界を望んでいるがそうできていない」と結論付けていることを以前の日記で紹介した。
- 作者: H.S.クシュナー,Harold S. Kushner,斎藤武
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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ただ、公正世界を期待する心は、無神論の私も持ってしまっているので、神の全能性を否定するだけではまだ足りないのではないかと考える。
震災後に出版されて話題にもなった上田紀行「慈悲の怒り」では、社会におけるおかしいシステムに対する怒りの感情を認めて、それをシステム変革にむけることを説いている。
「慈悲の怒り」はある種、公正世界への期待を捨てる必要はないといってくれているのかもしれない。「この世界は公正だよ、だから悪いことが起きた人は悪いことをしてた人だよ」という公正世界の誤謬を捨てつつ、「公正世界に少しでも近づけていくよう頑張っていきましょう」と思うことが大事なのかもしれない。