ゴーン・ガールと結婚と演技

映画「ゴーン・ガール」を見た。うーん、今までに見たことがなかったような映画。

ゴーン・ガール (字幕版)
 

物語で男女が描かれる時、「女は相手の欲望に合わせて演技をすることができ、男はベタに自分の自然な感情を頼りに生きる」という男女の構図が元になって描かれたものは多い。例えば、三島由紀夫の「宴のあと」など。

宴のあと (新潮文庫)

宴のあと (新潮文庫)

 

 

他にも物語には、男が相手の女自身を愛するのではなく、自分の幻想を相手の女にかぶせて、恋愛する男が描かれる物語も多い。その最たるものはヒッチコックの大傑作「めまい」である。

めまい (字幕版)

めまい (字幕版)

 

 

男が女に幻想をかぶせ、女はその幻想を演じる、というのは、ある意味、男女の不平等であり、男性が女性に幻想を演じることを強制するという意味で暴力的であるとも言える。 

 

ところが、「ゴーン・ガール」は違うのである。結婚当初までは妻と同様に演技ができた夫に惚れた妻だったが、バカ夫はすぐに演技ができなくなり、つまらない小娘に浮気をするのである。妻は演技ができなくなったバカ夫に復讐をする。二進も三進もいかなくなった夫はようやく一世一代の大演技をして見せ、妻が夫を「あなたも演技ができるんじゃない」と見直し、夫のところに戻る。しかし、夫は「君とは衝突ばかりしてきた。こんなのはやってられない」というようなことを言い、妻は「それが結婚よ」という強烈なセリフを言い、夫は言葉を失って、「演技する夫」としての役割を受け入れる。

つまり、これは女性も男性に対して、「お前も演技するんだよ!!!」と言っている映画なのである。そして、男性は女性を怖がるのだが、ある意味この妻は「そうだよ!それでいいんだよ!私を恐れるんだよ!!!」と言っているのである。

「男が幻想を女に押し付け、女がその幻想を演じる」のが暴力的であるのは誰もが認めると思うのだが、「だから女も男も演技をせずに、真実の感情で愛し合おう」とならずに、「男も女も相手を恐れて、お互い演技をするのだ!!!」というのがこの映画のメッセージである。こんな主張をする映画は私には初めてだった。

つまり、「自然恋愛感情V.S.演技」で、「演技が正義!」となってしまう映画なのである。なかなかニヒリスティック。

 

確かに自然感情というのはナイーヴすぎると私も思う。自然感情はどこまでいっても怪しいものである。続くかどうかわからないものである。しかし、逆に「演技」をするための明確な理由付けが思いつかない。そうまでして関係を続けないといけない理由はなんなのだろうか。自然感情を疑い始めると、「なぜ演技までして関係を続けないといけないのか」という疑いも出てくるのではなかろうか。これに対して、この映画は答えていないと思う。それがまだわからないということは、まだ私も子供なのだろうか・・・?