嘆きのピエタと修復的司法
在英中にキム・ギドクの映画「嘆きのピエタ」を見た(以下、ネタバレありです)。
「ピエタ」は十字架から降ろされたイエスの亡骸を聖母マリアが抱く絵で、この映画のパッケージも同じ絵になってる。
親の愛を受けずに成長した主人公の男が感情を持たない借金取りになり、無慈悲に債務者たちに腕を切るように強制したり、死に追いやったりする。そこで息子をその男に奪われた母親が復讐を試みる。その母親は主人公の男に「私が母親よ、あなたを捨てて出ていってごめんよ」と嘘を言って近づき、主人公の母親を演じていろいろと主人公の身の回りの世話をしてやる。そのうちに、主人公の男は人間的な感情を取り戻していき、自分が様々な債務者やその家族にしてやったことを後悔し始める。しかし、それこそが母親を演じた女の復讐であった。そして、その女は男を後悔させた後で殺すことを試みるが、自分がその男に対して母親の愛のようなものを抱き始めていることに気づく・・・という風になっている。
似た映画として同じ韓国映画で、ヤン・イクチュン監督&主演の傑作「息もできない」がある。こちらも貧乏で言葉の貧弱な主人公の借金取りが少女との出会いを通じて人としての感情を取り戻していく。
陳腐な言葉かもしれないが、「人と人が一緒にいること」が感情の醸成・修復にいかに重要であるか、そして、良心を持っている人が抱く憎悪も人と一緒にいることで回復することがあるということをこれらの映画は示している。
これらの映画を見て思い出すのは、「修復的司法」である。
修復的司法は加害者と被害者のコミュニケーションを通じて、起きた事件をきっかけに加害者及び社会が学びを得て、未来に活かすことで、応報的でない解決策を取ることである。これは、死刑廃止に必須のものであるという見方もある。
実質上、格差がまだまだ大きく、死刑がほぼ実質上廃止された韓国から出てきたこれらの映画を日本でも広く議論されるようになればいいのになと思う。