言語の習得と喪失

イギリスに来て、本当なら英語100%の生活になるべきだったのかもしれない。でも、私はそうするどころか、日本にいた時以上に日本語にしがみついて、日本語の本を読んだりYouTubeを見たりして、英語の読み書きも日本にいた時の方がやっていたと思う。なんでこうなってしまったのだろうか。

千葉雅也さんの「勉強の哲学」では、勉強というのが今までの自分の言語体系から別の言語体系に移ることで新たな自分になるということ、と書かれている。その過程で、もともと持っていた「ノリ」を離れて、前の自分からしてみると「キモい」自分になって、その後に新しい「ノリ」を身につけるようになるのだということらしい。これは文字通りの言語に限っていない。例えば「社会学」とか「プログラミング」の勉強や、新しく入った組織の習慣を身につけることなども大きな意味での言語習得である。

新しい言語体系を学ぶと、それに伴って重要であることと重要でないことが変わったり、物事の意味が変わっていく。

この議論は広い意味での「言語」の話だが、「日本語」「英語」という実際の言語の習得はさらに自分を大きく変えるのではないかと思う。英語にどっぷり浸かれば、それに付随したいろいろな考えや習慣が身につき、ものの考え方が変わり、以前の自分とは違うキモイ奴に変わっていくと思う。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

千葉さんは、「言語にしがみつくような言語の使い方ではなく、言語をおもちゃのように使える人になろう」というようなことを書いている。しかし私はどこか、日本語にしがみつくような振る舞いをして、以前の自分から変わることを過剰に恐れていたのかもしれない。

 

そんなことを考えている中、リチャード・ロドリゲスというアメリカ人を知ったので、本を買ってみて今読んでいる。彼は、メキシコ移民の子供で、家庭ではスペイン語を話していたが、学校に行き、そこで英語でしゃべるようになるにつれ、家族と楽しく会話することができなくなっていったのだそう(両親は英語が不得手で、かつ、学もない)。この本はそんな彼の「学ぶこと」と「失うこと」に関わる自伝だそう。ただし、彼の主張は狭い意味での言語(例えば英語)に限らず、学校で学ぶ広い意味での学習が家庭内のコミュニケーションに何かしらの困難をもたらしており、そこにケアが必要なのだといっているらしい。

Hunger of Memory: The Education of Richard Rodriguez

Hunger of Memory: The Education of Richard Rodriguez

 

 リチャード・ロドリゲスについては下の動画で知りました。とてもわかりやすい。


【マナビラボ: 3分でわかる!マナビの理論】リチャード・ロドリゲス】

 

 

言語の習得と喪失を考えていたとき、最も頭に浮かんだのは映画「セッション」である。

 この映画の主人公はジャズドラムという新たな言語を学び、のめり込むうちに、新たな自分へ変化し、彼女も捨て、次第にジャズドラムという言語を自分のおもちゃのように操って、師匠のドラムの先生をも食ってしまうという物語である。明らかに狂っているようにしか見えない主人公だが、彼は確実に新たな言語の習得と成長を果たしている。とはいえ、成長とはこういうものでしかないのだろうか。彼のようにいろんなものを劇的に喪失しなければならないのだろうか。