フィクションを楽しむ力

小説や映画を楽しむことができない、という人は結構いる。

逆に「これは事実に基づいた物語である」と言われると、その小説や映画に興味を持ちやすくなることがある。これはなぜだろうか?

人間は知識欲があるので、実際に起こったことや起こりうることを知識として吸収したくなる。それは今後の自分にとって役に立つから。でもフィクションは想像の世界の物語なので、役に立たないように見える。

しかし、事実は小説よりも奇なりとはいうもので、人間が考える物語はそれがどんなものであってもどこかで起こっているし今後も起こるのである。この世界は、無限に近い空間があり、無限に近い時間があるので、人間が考えるフィクションは実はどこかで起きているのだと思う。だから、小説や映画はフィクションであっても、それがどこかで起きた、ないし起きるものとして認識することで、人間はそういったフィクションを楽しむ力を持つことができる。

もし現代においてフィクションを楽しむことができない人が多いのであれば、それは「自分の見た範囲のものしか想像できない」という人が多いということなのかもしれない。古代の人々が不思議なフィクションを信じたのは、「この世はなんでも起きうる」という立場に立っていたからだと思う。

物語を作る小説家のような人も、いちいち「これはありえないかなぁ」などと細々気になる人であれば、書き続けることはできない。「俺の考えることくらい、どこかで絶対起きているから遠慮なく想像を膨らませて書こう」と思いながら物語を書く方が、ぶっ飛んだ物語ができつつ、かつ、リアリスティックにかけるのだと思う。そして、そういう物語のみが、「誰も私を理解してくれない」という人々の心に響くことができるのだと思う。