物語と円環的時間観

以前、自由意志と決定論の話でニーチェ永劫回帰の話を書いた。

ffnn.hatenablog.com

ニーチェ永劫回帰の思想とは、この世が円環的な時間の上にあり、すべては繰り返されるというものである。従って、そこに自由意志はなく、我々の行為はそうなるようになったものでしかないと言える。

 

さて、カート・ヴォネガット著「スローターハウス5」では主人公を誘拐したトラルファマドール星人が「自由意志といったものが語られる世界は地球だけだった」 と語るところがある。

なお、國分功一郎「中動態の世界」では、この地球でも古代ギリシアでは自由意志という概念は無かったようである。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

このトラルファマドール星人は4次元の世界に住んでおり、過去・現在・未来といった区別がなく、見たい時間を見ることができる。円環的時間の世界も、「<過去>は現在する」という価値観であり、過去は消えるのではなく、今のどこかに存在するという立場をとる。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

 

スローターハウス5では、多数の死が描かれるが、死がひとつ描かれるたび、「そんなものだ("So it goes")」という文が繰り返される。

自由意志を否定し、決定論を受け入れると、どんな惨めな死に方であったとしても、それはそうなるようになったとしか言えない。しかし、円環的時間観をさらに受け入れると、死者は「現在する」と言える。それに対して、もし、直線的時間観(時間は未来から過去へ流れて行き、繰り返されることがない)でいると、「彼らはそのような惨めな方法で死ぬとは限らなかったが、そのように死んでしまい、今現在彼らはおらず、そのうち忘れ去られる」という世界観を受け入れざるをえない。

だから、一見決定論は惨めな死に方をした人々に対して、「そうなるようになった」というふうに見るので、突き放したような見方になってしまうが、しかし、円環的時間観をさらに受け入れていれば、「彼らは今も存在する」ということができる。

カート・ヴォネガットが本書を描くきっかけになったのは、自身の第二次世界大戦の経験がある。彼はドイツ系アメリカ人なのだが、アメリカ軍としてドイツに参戦し、そこで捕虜になった。その後さらに、アメリカ軍による「ドレスデン爆撃」に遭ってしまった。これは、「殺戮のための殺戮」としか言いようのないものである。当時はすでに戦争の帰趨がはっきりしていたため、この爆撃は不必要な爆撃であった。この爆撃はその規模が激しすぎて正確な死者数がわかってない。カート・ヴォネガットは偶然、ドイツ人が「スローターハウス5」と呼ぶ屠畜場の地下貯蔵室にいたため助かった。しかし、その後死体の処理をさせられ、PTSDを患い、何度も当時の光景がフラッシュバックするようになった。そのフラッシュバックが、小説「スローターハウス5」で時間が様々に行き来する設定につながっている。

「過去の死者が今もそこにある」という見方は、ベンヤミンの「歴史の概念について」で提唱された「歴史の天使」につながる。彼によると、歴史の天使は翼を広げて、時間の流れとは逆の方を目を開けてみており、そこには無数の死者やがれきが積み重なり、それをずっと見ている、というものである。これもまた、「過去が現在する」という価値観である。なお、ベンヤミンナチスから逃れることを果たせず自殺するが、「歴史の概念について」はその前にハナ・アーレントに託されている。

ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫)

ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫)

 

ゼーバルトアウステルリッツ」は建築史に詳しい主人公の語りによって、歴史における死者たちが浮かび上がるような感覚を読者に与える。

アウステルリッツ

アウステルリッツ

 

通常、物語は通常の直線的時間観で描かれる。しかし、物語によっては、それに従わなず、過去と現在が交差しながら描かれるものがあり、それによってあたかも過去が今あるかのように感じられる。そして、我々の頭の中では、死んだ知人がまだ今もいるかのように感じられるように、過去は確かに今の中にあるのである。

直線的時間観は、人間に勝者と敗者を生み、敗者は忘れ去られる。それに対して円環的時間観はすべての死を運命によって描くことで、勝者も敗者もなくなり、すべての死者は今も存在することになる。

私は、円環的時間観に基づいた物語こそが、人の記憶の有り様を正しく写すもので、それを読むことで、他人を押しのける生き方を弱め、人や死者を思う心を強めるのではないかと思う。

 

なおスローターハウス5については、下記リンク先の音声ファイルが非常に理解を助けてくれます。

tomomachi.stores.jp