「怒り」よりも厄介な「残念」という気分

昔、「もう、怒らない」という小池龍之介さんの本を読んで、怒ることがかなり減ったと思う。この本は怒りのもったいなさを語った上で、どう怒りに対処するかを書いている。

怒ってる側は自分が他人の間違いに対して正当な理由で怒っていると思いやすいものだが、そうやって自分の怒りを正当化すると怒りが止まらない。そうなると怒るために怒るという感じになってしまう。怒りは怒っている人間自身の心を傷つけ疲弊させてしまう。だからとってももったいないことである。そして、怒る人というのは自分が主体的に怒っていると思っているが、むしろ怒りの感情に自分が操られていてとっても不自由な状態なのである。

これに対処するには、「怒っちゃだめ!」と思うのではなく、「あー自分はこういうことに怒っているんだなぁ」というふうに自分の怒りを見つめることである。そうすることで、自分を客観的に見ることができるようになる。自分が怒りという感情に操られているのだなと高い目線で自分を見る。そうすると、怒りの感情が小さくなっていく。

これは他人から自分に向けられた怒りに対処するときも同じで、「あーこの人はこんな感じで怒ってしまってるなぁ」と見ることで、怒りに怒りで対応することがなくなる。

もう、怒らない (幻冬舎文庫)

もう、怒らない (幻冬舎文庫)

 

 

怒りというのは、期待の裏返しでもある。「本当はこのことを避けられただろ?!」「本当はこうできただろ?!」という感じの期待に沿わなかった行為に対して怒ってしまうのである。当然だが、これは自由意志を前提にしてしまっている。このような怒りを防ぐために、人間を自然物と同様とみなし、自由意志がないと過程すれば、「仕方ないよね」というふうになる。実際私はこういうふうに日々認識して生きている。

 

「人間は期待を持ってしまうから絶望してしまうのである、期待を捨てればあとは希望しかない」、と言われることがある。なんとなくそれについては私もそうかなと思う。でも、今私はまだそこまでに至っていない。

 

私は「怒り」は感じにくくなっているのだが、「残念」という感情に悩まされている。例えば、ある人が自分のつまらない保身、つまらないプライドのために、ずるいことや心無いことをしているときや、あるいはそういう行為を繰り返しているのをみると、「このひとはそういう人だから仕方ないし、変えられないから怒ってもしょうがない」と、その状況を怒り無しで受け入れることができるのだが、同時にそのような人間のその変わらなさや、そういう人が無数にいるこの世界の変わらなさに、絶望に近い「残念」という気持ちを感じるのである。これは私にとっては怒りよりもつらいものである。

人間の行為の前提に自由意志をおかないことで怒りを抜けることができるが、その後に生ずる「残念」という気持ちは一体どうすればいいのだろうかと考える。もしかして、私は個々の人間への期待は捨てているが、「世界を生きる人は良い方向へ変わっていくものであるべき」という、より大きな期待を世界に持ってしまっているのかもしれない。さてどうすればいいか。