公正世界の誤謬
「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記」を読んだ。
- 作者: H.S.クシュナー,Harold S. Kushner,斎藤武
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/03/14
- メディア: 文庫
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著者はユダヤ教のラビで、子供が幼くして早老症であるとされ、残り10数年の命しかないと知る。そこで、旧約聖書のヨブ記を再考する。
ヨブ記というのは、高潔で幸福なヨブという人がいて、神は彼を信頼していたが、サタンが「彼は見返りを求めて信仰しているだけではないか?そうでないか試さないか?」と言って、ヨブの財産や愛する者を奪ったものである。
ここで、
- 神は全能である
- 神は公正である
- ヨブは高潔である
という3つが矛盾してしまう。最初の二つが正しいとすると、ヨブが苦しみを受けたのはヨブが高潔でない人間であり、公正な神が彼に罰を与えたということになる。
私は無神論者だけど、信仰の有無にかかわらず、「ひどいことが起きたということは、その人が良くない行いをしているからだ」と思いがちになる傾向が人間にはある。これは公正世界の誤謬と呼ばれている。性犯罪を受けた人が「淫らな服を着ていたり、誘うようなことをしていたのではないか」と疑いを受けやすいのもそうだし、ホームレスの人々が「不真面目だったから」と思われやすいのもそうである。
この本の著者はラビなので、神の存在を前提とするが、彼は「神は全能ではない」とする。そして、世界の出来事は因果関係では説明できないことが大半であり、ひどいことが起こってもその人のせいとは言えない、という。悪いことが善き人に起こってしまうのは、神が全能ではないからであり、神がそのような不幸を防ぐことができなかったからだという。当然ユダヤ人大虐殺も彼らが悪い人たちであったはずなどない。神は人々の幸福と公正を祈っているが、その通りに世界を作ることができていない。しかし、人間である我々は不幸が起きた人々に寄り添うことができ、科学の発展などで不幸が少なくなるようにする努力ができる。人間は、自分に起きた不幸に「原因」を探し出すことはできないが、その不幸に「意味」を与えることはできる。「これから自分はどう生きるか」という決断へ向けて、過去の不幸に意味を与え、周囲の人間を助けていく勇気を持つことができる。
著者はラビだが、神を恨んでいいとすら言う。神への信仰よりも重要なものは、今を生きる人々に対する愛であり、神はそのような愛を人々に願っている。その愛をなすために、自分に起きた不幸に意味を与えて、将来に向かって前向きに生きることができる。
私は積極的な無神論者であり、神の存在を前提とすることはできない。しかし、人間は公正世界の誤謬のような、間違った思考のパターンが備わっており、それによって他人や自分自身を辛くさせてしまうことががある。宗教にはそのような人間の誤謬を正すような教えを持っているものもある。クシュナーのこの本は、むしろ私のような無神論者にとって非常に重要な本なのかもしれないと思った。