物語の創作者は人間や世界をよりよく理解できていると言えるか?

私は将来物語を作りたいなぁと考えていて、その理由は、「物語を作る過程で、自分自身も人間として成長できるのではないか?」と考えているからである。物語を作る、ということは人間や社会、そして自分自身をよく理解し、それらに生ずる問題に対してどのような姿勢で接するべきかをよく理解できなければ作れないのではないか?と考えているのである。

そうすると、小説や映画で売れている人々はすべからく人間や社会への洞察力があり、人間としても高潔なのではないか?と思われるが、その予想に反する作家はいくらでもいるようである。どうしようもない作家は大昔からいるし、あるいは排外主義的な言動が多いにも関わらず書いた小説がたくさん売れている人は今もいる。

そう考えると、売れる物語を作るのに、人格が良い必要はおそらくないのだと思われる。しかし、良い物語と作家の人格が無関係かというとおそらくそのようなこともない。

売れる物語というのは、読者(観客)が物語を通じて登場人物に感情移入ができ、その登場人物を通じて自分の感情が揺り動かされる作品であろうと思う。例えば主人公に感情移入して、その主人公に悪さをする人間を憎み、その悪さをする人間を倒せば、感情がドキドキしたり怒ったり喜んだりできる。

しかし、物語の世界観や善悪の基準が最初から最後まで揺さぶられることがないまま物語が動いていたら、その物語はただの独善的なものになってしまう。

排外主義的な言動を多くするような売れっ子作家というのは、自身が社会に勝手な世界観を投影して他者に対する軽蔑を持ち、そのような人々への排外主義的な言動をしており、多くの排外主義的な読者がそれに熱狂している。同じようにそのような人が書く物語も世界観が最初から最後まで変わらず、善と悪がそのままで貫かれたような独善的な世界を作っており、そこで感情を動かされているだけであろう。

物語は読者(観客)の感情移入をコントロールすることができる、恐ろしいものである。そのため、それを独善的に使えばいかようにも人をコントロールすることができる。しかし、多くの物語の創作者はその恐ろしさを知った上で、人々の感情だけでなく、世界観を揺り動かすような作品を作っていると思う。少数の格闘家が自身の力を独善的な目的で暴力に使うが、ほとんどの格闘家は自身の力を抑制的に扱い観客に感動を与える。物語の創作者も同じで、一部の創作者は独善的な世界観を押し付けるために用い、ほとんど創作者は読者(観客)の世界観を揺さぶるために自身の力を使っているのだろうと思う。そして、そのような作家はやはり人間や世界をよく理解し、高潔な目的のために努力しているのだと思う。