宗教的な映画における「奇跡」と「前後即因果の誤謬」

物語上で「奇跡」が起こる時に、それをそのまま奇跡ととっていいのか、あるいは前後即因果の誤謬と捉えるべきかいつも迷う。個人的にはなるべく後者で把握するようにしている。

例えば、「ことの終わり」という映画(原作であるグレアム・グリーン小説「情事の終わり」はまだ読んでおりません!)。なお、以下ネタバレです。

ことの終わり (字幕版)
 

この映画では、主人公が友人の妻と不倫していたのだが、ある日からその彼女が不倫をしてくれなくなった。主人公は「別の男ができたのではないか?」と疑う。そこで、探偵を通じて彼女を探ることになる。どうやら彼女は牧師のもとに足繁く通っていることがわかる。主人公は彼女が牧師と不倫しているのではないかと考える。ところが、そういうことではなかった。彼女と主人公は不倫している最中にナチスドイツの空爆にあい、主人公が吹っ飛ばされ、彼女の呼びかけに反応しなくなる。彼女は信仰の篤い人間ではなかったが、そこで神に祈り「彼を救ってください、そうしてくださればもう彼には会いません」と誓う。その後、男は何もなかったかのように起き上がる。彼女は神のおかげだと思い、信仰に篤くなり、彼に会わなくなり、牧師を頻繁にたずねるようになる(彼女が主人公に会わなくなった理由は牧師ではなく、神だった!)。映画のラストでは、この女性を追いかけていた探偵の子供に彼女が触れると顔の火傷跡がなくなる。

まず、「女は牧師と不倫し始めて、私を去った」という主人公の考えは誰も疑いようもない「前後即因果の誤謬」である。ところが、女の祈りの後に男が起き上がったところと、少年の火傷跡が治るところは、「奇跡」なのか「前後即因果の誤謬」なのかよくわからない。おそらくそれはどちらと捉えてもいいのかもしれない。

しかし、私は「物語は反物語でなければならない」と思っているので、ここはやはり「前後即因果の誤謬」と捉えたい。ここで反物語とは、人間が世界を見るときに犯しがちな世界構成や物語構成に否を突き付け、認識を改めさせるものである。