物語と自閉

千葉雅也さんの「勉強の哲学」で、「アイロニー」と「拡張的ユーモア」と「縮減的ユーモア」という3つの用語の話が出てくる。この3つは物語を鑑賞するときや創作するときに役立つと思われる。

アイロニー」とは、例えば、周囲が「結婚したいねー」とか「いい学校行きたいねー」とか言ってるときに、「ていうか、結婚ってなんだろう」とか「いい学校ってなんだろう」と考えることである。こういう考えを始めてしまうと、しまいに「人間ってなんだろう」とか「世界とはなんだろう」などと無限に定義を疑い初めて行ったりする。

アイロニー」は物語の主人公が冒頭で、周りとの違和を表明するときに使われることが多いと思われる。「コンビニ人間」の主人公はまさにそうで、周囲の人間が結婚や就職を幸福に結びつけて考える中で、そういう考えに馴染めず、「幸福とは何か?」という疑問を抱く。

「拡張的ユーモア」は話されたり考えられたりしている話題が別のものにいつのまにか変化するものである。例えば、不倫が良い悪いの話をしている時に、「不倫は音楽だよね」とか話し始めて、話が別のものに接続されてそちらへ飛んでいくものである。

映画「愛のむきだし」では、「罪」の話から始まり、「性」の話へ飛び、「家族」や「兄妹」の話へ飛び、「宗教」の話へ飛び、最後に「愛」の話へ着地する。

「縮減的ユーモア」は話されたり考えられたりしている話題の中で、特定のものについて掘り下げた会話をして楽しむものである。例えばドラゴンボールについて懐かしんでいる会話の中でたまたま触れられたヤムチャの話にどんどん深く話してそれだけをひたすら楽しんでいるやつがいたら、ちょっと頭おかしいんじゃないのってなるが、そういうものを指している。懐かしみの会話をしている中で、一人がいきなりガチでその中の特定の話題について延々と話して楽しんでいたらヤバイ。

ただ、物語において、主人公が何かあることにハマってそれだけを無限に追求している時、観客は「そいつはそいつ自身になった」という感覚を覚える。誰にも理解されないが、自分がハマってそれをひたすらやっている自閉的な姿が人に感動を与える。例えば、映画「ロッキー」で主人公が走ってるシーンや、「百円の恋」の主人公がボクシングにハマってるところはまさにそういうものだと思う。

こう考えると、物語における主人公というのはちょっとヤバイやつなのだが、ヤバイやつにならないと人間は自分自身になれないということなんじゃなかろうか。

人間は誰しも自分自身になる、という瞬間を経験することで生きる楽しみを得ることができるのだと思う。だから、自分の感じる違和を大事にして、いろんな世界を次々に移っていき、最後に自分だけが無限に楽しめるものに出会うことが必要なのだろう。ひたすら空気を読んだり、損得で動いていてはダメなんだと思う。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

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コンビニ人間

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愛のむきだし

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ロッキー (字幕版)

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百円の恋

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