伊賀泰代「生産性」を読んだ

伊賀泰代「生産性」を読んだ。大変面白かった。

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

 

本書によると、個人としても組織としても、今後の目指される目的は総生産量ではなく、総生産量を投資額や時間で割り算した生産性であるという。今後、給与も生産した総量ではなく生産性を基準とするべきであり、 組織も生産性を向上することでイノベーションを起こし圧倒的な立場に立つことができる。

最近では多くの企業でも生産性を目標に掲げる場面も多いが、単純に投入資本(金・時間)を減らすことだけを目的にしてしまっていることが多い。例えば、会議の時間を短時間にすることを目指す会社は増えているが、それはかけた時間を減らしているだけであり生産性に注目していないやり方である。生産性が高くなるのであれば、むしろ合宿形式でとことんやったほうが生産性(=総生産量/投入時間)が高くなることもある。したがって単に時間を短くすればいいという問題ではない。工夫(イノベーション)が必要である。

この本では個人レベル・組織レベルの両方で生産性を上げる工夫をいくつか提示していて、すぐに役立つものも多い。企業固有のイノベーション(たとえばFedexのハブ&スポークなど)の事例を出し、独自のイノベーションのアイディアを持たねば、日々の工夫だけをしている企業は負けてしまうことを教えてくれる。

 

個人レベルの生産性向上の例として、私は二つの方法がとても興味深く、すぐに役立つと思った。

まず一つは、自分の生産性をストップウォッチで計るということである。著者によれば、生産性を上げようとしているのに、1タスクごとにかけた時間を計らないのは、体重計を使わずにダイエットしているようなものだという。自分の仕事をタスクに細分化し、それらにかけた時間を計り、生産性を把握してその向上を図る。例えば英語のメールを読んだり書いたりするのにかけた時間を計ってその向上を目指すなどである。

次に、資料を作る時に(あるいは、論文などもそうか)、ブランク資料を作ることである。資料に埋めるべき内容に穴があっても(まだ埋めるべき数字やインタビューなどなくても)一旦そこは穴のまま作るということである。そうすれば、あとは、その穴を埋めるために必要な情報収集だけに専念できる。それをしないと、成果物に使わないものも含めた情報収集をしてしまい、仕事をしている気にはなるが、結果的に見ると成果物に必要のない情報収集に時間を使ってしまうことになるのである。

個人的にはこの2点を自分の習慣にしつつ、他にも他人にはない自分独自の生産性向上のイノベーションを自分に対して起こしたいと思う。

村田沙耶香「しろいろの街の、その骨の体温の」を読んだ。

以前、村田沙耶香さんの「コンビニ人間」を読んでいろいろ考えさせられたのと、物語の世界観やキャラクター設定に感銘を受けたので、同著者の「しろいろの街の、その骨の体温の」を読んだ。

コンビニ人間」を読んだ時は作品と自分の距離を保つことができたが、「しろいろの」は、自分の感覚の中にどんどん入ってきて、最後に私の感覚能力を拡張して過ぎ去っていった。

主人公は女性で、最初の3分の1が小学校の初潮が始まるころ、そのあとが中学2年生のころである。開発途中のニュータウンに住んでいる少女が、自分の体にコンプレックスを覚えたり、学校内の人間関係(スクールカースト?)に怯えて自分を押さえ込んだり(と同時に自身もそのカーストの中で加害者にもなる)、書道の教室で一緒に男子を「おもちゃ」にしようとしたりする…と言ったら「なんじゃその話」といわれるだろうか。

以前、宮台真司さんが「コンビニ人間」を「社会学者が書いたと思ってしまうような内容」と言っていたが、「しろいろの」も「ニュータウン」「学校」「女性のセクシュアリティ」といった内容が有機的に結びついている。amazonのレビューで「酒鬼薔薇事件を乗り越えようとしている」との評や「実存を描く物語」という評があり、なるほどと思った。この小説で主人公は、自分を押しとどめ、世界に「外部はない」と思い、自分の中の性という魔物をいびつな形で発露する。それにもかかわらず、主人公は、最後の方で、思わぬきっかけで、ニュータウンを生きる人々の抱える悪循環を乗り越え、自己開示を果たす。

この話はニュータウンという場を借りていながら、そういう場所に住んでない人々にも通ずる話である。社会や家庭で自分を押しとどめる人は皆この小説からヒントを得られるのではないか。ついでに言うと、小説中で、このニュータウンは発展し、途中で発展をやめ、また発展をし始めるのだが、それと日本全体を重ねて考えても良いかもしれない。

女性のセクシュアリティの描写も印象深かった。村田沙耶香さんの他の小説でも女性のセクシュアリティを描く作品が多いと聞くので、他のものも読んでいこうと思う。

 

グレースケールとカラー反転で集中力を高める

私は画面の色が明るいと、気が休まらなくて、集中力がものすごく下がってしまう。こういう人がどれくらいいるかわからないが、プログラミングのエディタやターミナルアプリの背景を暗くするプログラマーは多い。そこで、画面全体を暗くすれば集中力が高まると考えた。

macのシステム環境設定からアクセシビリティを開き、ディスプレイの設定で、「カラーの反転」と「グレイスケールを使用」にチェックを入れる。そうすると、明るい色は暗くなる。画面は基本的に明るい色をよく使うので、ほとんど暗くなる。かつ、「グレースケール」のおかげで白黒になる。

昔、受験生だった時、色を多用してる参考書に良いものはなかった。目がチカチカして、勉強を続けられない。だから勉強を続ける人はああいうものは買わない。みんなきっと目がチカチカするのが嫌いなはずだと思う。

この設定で、動画や画像を見ると、人間がとっても強く映る。だからなおさら作業に集中しやすい。嬉しいことずくめ。

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三宅隆太トーク&サイン会「あなたらしい自己開示の方法」に行ってきた

三宅隆太さんのトーク&サイン会に出てきた。私はまだ購入しただけで読んでないけど、「スクリプトドクターのプレゼンテーション術」という本の出版記念イベントだった。

イベントでは、「固まった思考を改善するためのワークブック」というかなり分厚いワークブックを配布してくださり、その利用の仕方を教えてもらった。人間には、「内的欲求(本来の自分)」、「社会的仮面(偽りの自分)」、「自動思考(考え方や行動の癖)」という3つの自分があるということだそうだ。ワークブックは自分が本来ありたいと望んでいる内的欲求を知ることで、自分をいかに解放するかを学ぶように作られている。まだ書き込んでいないが、ぜひ利用しようと思う。

サインもいただいた。サインをいただく時に、「三宅さんの本のおかげで、最近自分の殻をひとつ破いて今までできなかった行動に踏み切ることができました。ところで、質問ですが、殻を破るためには主人公が追い詰められる必要があると思っていて、自分もそうだったんですが、このワークブックを書くという行為自体は追い詰められることには当たらないと思いますが、どうですか?」と聞いたところ、「「スクリプトドクターの脚本術」で書いた「殻を破る」というのは行動を変えることなので、そういうことになるのだけど、今回のワークブックはまず自分の思考の癖や、自分がどうありたいかを知ることに相当するので、「殻を破る」ということよりも少し優しいことなのです」というようなことをおっしゃっていた。

トークではいろんな質問が出てきたが、三宅さんの回答は全てが理路整然としかもちゃんと質問者が知りたいと思っていることを教えていてさすがだと思った。頭がいい、というのは当然なのだが、それ以上に、三宅さん自身が自分でずっと考え抜いてきて、同じ問いを自分に問うてきて答えを出してきたということがあるのだろう。

来年は2冊出したい本がすでにあるとおっしゃっていた。楽しみである。

スクリプトドクターのプレゼンテーション術 (DIALOGUE BOOKS)

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ひとり酒

基本的に酒は人と一緒にいるときしか飲んでこなかったのだが、最近家で一人で飲むことを覚えてしまった。最初は友人の結婚式で素晴らしい日本酒を飲んだことがきっかけになり、獺祭を買ったのが始まりだった。その後、ハイボール(なぜかずっと避けてきた)を飲んだら感動で、それを家で飲むことになった。ハイボールは「濃いめ」というものもあり、それを飲むとベロベロになるのだが、「濃いめ」でない方でもそれなりに酔っぱらうので、普通のハイボールを飲んでる。

鬱と酒がセットになると深刻なステージに至るのではないかと個人的に思っている。しかし、どうも最近鬱っぽいことも多く、怖い夢もたくさん見るので、そういうことの中和のために飲みたくなることもある。一応やめているが・・・。

昼間から飲むのはかなり良くないというのを中島らもが言っていたと思う。彼は酒に飲まれ続けた人間だと思う。彼の小説「今夜、すべてのバーで」では、そこらへんの悲哀が描かれていて、身につまされると同時に、周囲の助けてくれる人のおかげで少し暖かい気持ちにもなる。

酒との付き合いで危ないのは、飲むと暴力に至る人である。そういう父親を持った子供や配偶者が辛い人生を送ったという話は多い。私は今のところそういう感じではない。だが、現実逃避で昼間から飲むことが続けばどうなるのだろうか、想像がつかない。

酒との相性は多分に体質的なものであるが、精神的なものがその引き金になる。飲まないでやれるならそれに越したことはないが、現実を逃避したいと思うことがあり、それが良い感じで中和されるなら、しばらくは薬として飲むのは悪くはなかろう。

いつものことながら、何の結論もない日記である。ちなみに今ハイボールで酔っ払ってる。

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

 

 

18歳の頃に書いた文章を見つけて

18歳の頃にホームページを作る楽しみを覚えて、くだらないことを書き散らしていた。まだ、大学に入ったばかりであった。とうの昔に閉鎖したそのホームページに載せていた私の文章が見つかった。

私は理系の学生で、数式のない本は一冊も読んだことないくらい、極端に本が嫌いだった。今はそれなりに本を読んでいるので、その時に書いていたことは今の自分と全然違ってレベルの低いものだったのだろうと思ったが、ショックなことに今の自分と書いている内容も文体も変わりがなかった。おまけに、英語の文章もあって、当時それなりに受験で鍛えられていたのか、普通に上手くて、逆に今の私の英語のレベルと大差なかった。あれから成長してこなかったのだろうか。

当時書いていたことは、「日本を出たい」ということなどで、今でも思っていることである。部分的に達成したが、今の姿をあの頃の自分が見たら絶望がさらに深まったりするのではないだろうか。他には「高校2年から鬱だが、それと付き合っていくしかない」とか。当時すでに妙に達観してる。

私は「成長」とは「変化すること」だと思っているので、あまり成長していないのかなと思った。視野が狭いこと、考え始めたことを執拗に考えてしまうこと、いろいろあるが、変わらないのであれば、それを良い方向へと持っていくのが自分の責任なのかもしれないなと思った。

ウェブ上の日記といえば、辛酸なめ子さんの「自立日記」が好きである。有名人になる前から書いていたものだったと思うが、書籍になっている。当時からすでに視点が面白く、才能なのだなと感じる。うらやましい限りだ。

自立日記 (文春文庫PLUS)

自立日記 (文春文庫PLUS)

 

 

日本の良い習慣とは?

オンライン英会話で、「あなたの国での良い習慣(good manner)を語ろう」というお題が出て、大変困った。ここでいう「良い習慣」がpoliteという意味なのであれば、「ご飯を食べる時、お茶碗を持つ」というのは「良い習慣」に入るだろう。「良い習慣」というのが、「他人にとって嬉しい」という意味なのであれば、「電車で体の悪い人に席をゆずる」というのが入る。何が困ったかというと、後者に相当する日本の習慣があんまり思いつかず、英会話のネタが全然出てこなかったのだ。

他の国ではやたらと、「ドアを次の人のために開けて待っておく」とか「ベビーカーを地下鉄の駅で押している人がいたら一緒に運んであげる」とかそういうのがボンボン出てくる。私はそういうものが思いつかなかった。

日本では、震災が起きたとき誰も列を乱さなかったとか、そういうことが美徳に上がったりする。しかしそれは「列を乱してはいけない」という、「〜してはいけない」「〜したら迷惑がかかる」とかいうものであって、「〜してあげたら相手が喜ぶ」「〜したら困ってる人が助かる」とかそういうものではない。

これは詰まるところ、日本がムラ社会であって、人と人のつながりが相互監視で成り立ってきたという歴史的経緯からくるものだろう。人間の移動があまりないとそういう風になる。そういう社会では「マイナスを作らない」ことで自分の評判を保つ。先ほどの「震災があっても列を乱さない」というのも「マイナスを作らない」ことで自分の評判を保つということだし、会社で「上司が退社するまでは自分も退社せず無駄な残業をする」というのも同じで、「マイナス」を作らないことで自分の評判を保つのだ。アメリカのような流動性がそれなりにある社会では、リスクをとって相手を信頼をしてみる、ということや、相手が喜ぶことをして信頼を勝ち得ることが大事なので、「プラスを作る」ことで自分の評判をあげる。会社にいる間は会社でプラスを作り、地下鉄の駅にいるときはベビーカーを運ぶのを手伝うことでプラスを作り、帰宅後は家で子供と遊んだりしてプラスを作る。

こんな小難しいことをオンライン英会話でいってしまうと、きっと場の空気を乱すだけで、迷惑かけてしまうだけだから何もしゃべれないわ、と思う私はすでに「マイナスを作らない」人間である。多くの他の日本人と同様、こういうところが私の英語上達の大きな障害のうちのひとつになっているである。

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

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